昭和52年だかだからようやっと80年代になったころ、この表題作の「観音力疾走」が芥川賞候補になったそうで、今当時の選評を見ていると井上靖などがいい評価を与えているのだけれど今ひとつ票が入らなかったと言う。
お話は炭坑に住む3人の子持ちの女「わたし」が、同じ炭坑にいるひねくれ者で乱暴な男「あの人」と一緒になるという話。
前の夫は町で女を作って逃げた飲んだくれで、一番上の子どもは知恵おくれの13歳。炭坑にもこのまま置いてもらえるかわからず、貧しくてみじめで、まったく笑えない状況の中、「あの人」とのなれそめも、昼間、肩身が狭くておかみさん仲間と一緒に山に山菜とりに出かけられなかった「わたし」が、夜になって籠を持って山に入ったときに、炭坑でもまむしと呼ばれて恐れられる「あの人」と出くわしてそのまま押し倒されてしまうというみじめなものだった。
だがお話のトーンはまったくみじめなどではなくて、それはもう悔しかったりなんでわたしばっかりてんてこまいして走らなくちゃいけないのかしらなんて人生の不条理に涙したりする「わたし」だけれども、結構しぶとく生きている。
「わたし」は自己憐憫におちいってしまうほど自意識が強くない(イコール「わたしなんかはばかだから」)し、そのぶんどこかしっかりした所に根を持つ強さ,というよりやはりしぶとさがあるのだ。
恐れられていたこの男を好きになってしまい遂には求婚されてしまうのだけれども、「わたし」は自分の持っているコブやら年齢やらの大きなハンデ、そして貧乏生活のために崩れ落ちそうなプライド、というよりはこの場合は矜持といったほうがいいのだろうけれど、そういうことをゴチャゴチャ考えて一歩踏み出せない。
「わたしはああいうことをして男のひとからお金をもらう女の人の気持ちがわかったと思いました。
あの人お金をくれたんです。わたしはくやしいのだかかなしいのだか何が何だやら涙が出るばかりで、それでもお金は離しません。正直いって助かったのです。
(中略)
はじめのお金は子供らのぴぃてぇえぇやらお肉の入ったらいすかれぇを食べさしましたけど、二回めにもらったら口紅を買うかもしれません。」「女子どもなんかには手をあげないというけれど伝さんの乱暴がおさまったちゅう証拠だってないです。
それに若くてきれいなひとば、もらおうと思えばもらえるのに何をすきこのんで三人のこぶつきの年増なんか、一文の徳にもならないのにと、そこがしんから納得できません。
けど、顔を見ればあのひとが嘘をついていないことがわかりますからなお迷うのです。」
ほんとうはまむしなどではなくやさしい男なのかもしれないと見抜いているし、プロポーズに舞い上がってしまう自分を抑えながら諦めようとするのだけれども、このまむしの「あの人」がもうえらくいい男で、そういう「わたし」のダークな部分にまったく気づかず無骨に返事を催促に来る。
素直でなくて、人が「まじめくさって」演説ぶったり我を忘れて騒いでいると、思わず石をなげてしまうような変わり者のまむしの「あの人」。
「わたし」は夫に逃げられた女だけれど、「あの人」はかつて母親に捨てられた男だった。そうして、人がつるんで楽しくやっていたり、難しいことを言って注目を集めているところにいると、なんとなくいらだちを感じてしまう。それを投石にして表現してしまうような男(パンクスだ......)になってしまったようだということを「わたし」は寝物語で察するようになっていく。
結婚してまむしと呼ばれた男もすっかりカドが取れ、「仏」と呼ばれるようになる。ふたりは似合いの夫婦になったのだ。
子供たちも、さほど諸手をあげて可愛がってくれるというのでもなく、だが酔って暴れたりなどもしないフラットな性格の新しい父親にすんなりと溶け込んでゆく。
日がな一日与えられた四畳半にこもって石をこすり合わせる遊びをしているだけの長男を見た後、無表情なままポンとテレビを買って寄越す「あの人」。
炭坑ではじめてテレビを買った家になったことに驚きつつ、あのテレビは長男のためのものだったのではないかと「わたし」は考える。
浪花節の催しものを観に、次男と連れ立ってでかけた「あの人」を追うようにして家を抜け出した長男は、行方不明の挙げ句肺炎を患ってあっけなく死んだ。
なぜ長男は家を出たのか。次男ばかりを連れて出かけたことにやきもちをやいて、「あの人」を追って出たのだったら「そんならおまえ正気ちゅうことになるがや」ということになる。
長男は死の間際、惚けたような表情がなくなり、きれいな顔の男の子になって死んでいった。
最後にはやきもちを焼くような正気がよみがえっていたのかもしれないけれど本当のところはわからない。
こうしてひとりの人間(一人ではなくてその子供ともども)が出会いによって救われていくというとても優しい物語で、ただもう救済だとか、愛だとか、あなたによって救われただとか、そういう激しい外来の感情や概念はどこにもないまま、淡々と変わってゆくあたたかい生活が描かれる。
「わたし」の視線はその変化を新鮮な驚きを持って細かく捕らえていて、自分を救ってくれたのは「あの人」だとはっきり口では断言できないのだけれども(そんな自信も押しの強さもないから)、たしかに「あたたかい光にくるまれて蓮の花に乗っているような」心持ちになれた。
物語の最初、「あの人」はすでに炭鉱内の落石事故で意識を失い寝たきりになっている。この話はその枕元で「わたし」が出会いから今までを回想したものだ。
大きな病院に搬送されて手術を受けることになったというところで話は終わる。
彼が助かるのか、もとのような幸せな生活に戻れるのかなど書かれないし、そうでないにしても与えてくれた幸せは本当のものだったなどと過去をいい思い出にするような視線もない。
それはそうだろうと思う...人生が救われることは、そんなきれいごとではなくて、生活を救うという卑俗な部分と合致している貧乏さの話でもあるし、だから殆ど幸せをはじっこだけ与えて人事不詳におちいる「あの人」との日々を美しい心の支えにすることなどしていられないほどに、人生は生活という現場のまっただなかにある。
この人間の力ではどうしようもない部分を描く怜悧さから来る、生きてそこにあることのやるせなさ、それと矛盾しない心の機微をあたたかく書き出していく目線の高さが近い筆致が好きで、かなり前に読んだけれども非常に心に残った名作です。
自立する手段を奪われている時代の女である「わたし」だけれども、その気持ちは今でもかなり伝わると思うし(ひけめを感じる気持ちやまいあがる気持ちってあまり変わらないんだとかね)、恋のお話としても美しい。
「あの人」はちょっとびっくりするくらいいい男なんですが(10数年ぶりくらいに読んでしみじみ思った)、多分このいい男っぷりは、ただ体を動かして稼いでくれば悩みはない動じなさによるもので、だからこの男は周囲が「みんしゅしゅぎだとかいってまじめくさって」ものごとのプロセスを複雑にしようとするとキレて投石行為に及んでしまう。
炭坑夫として、家庭を持ったおとうちゃんとしての分をわきまえつくしているからこそ、余計なことは考えたくないという感じ...あぁ頼りがいが。
このシンプルさを保っていられる環境が今の日本にあるかどうか...ただこうした気性のある男性は今もいるし、できるならその分を大切に守ってあげられる環境に恵まれていてほしい...などとこの自己プロデュース力なくして生き延びられないグローバル社会のど真ん中にて思います。絶滅種(涙)。
わたしも炭坑というものはなくなった時代の子供だけれども、これって今ではもうリアルさはないのかなあ。絶版になって久しいようです。
これを最初に読んだのはたしか19-20才頃でしたが、この頃は小説や漫画などお話ものを全く読まなくなっていた時期で、それだけに当時読んだものは結構厳選されて良いものを読んだような気がします。
作者の高橋揆一郎さんは、この作品の次の次の作品「伸予」で芥川賞を受賞。今年の1月に肺炎でなくなりました。

- 観音力疾走 木偶(デク)おがみ
- 高橋 揆一郎
- 文芸春秋 1985-07
